一人暮ブログ

Twitterの延長.エモかった事とか書きたいだけです.

俺だって

 最近、竹原ピストルが新しいアルバムを出した。最近と言ってももう二ヶ月くらい前だと思うけど。で、その中の一曲に「ギラギラなやつをまだ持ってる」って歌があって、これがいけない。今回はこの歌にヤられましたって話。時間があればぜひ聞いてみてほしい。

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 唐突だけど、最近人生がめちゃめちゃ安定してる。新規でやってる事業も安定してきて、最高の彼女(正確には違うけどめんどくさいからとりあえず彼女で)もできて、毎日本当にめちゃめちゃ楽しいし充実してる。...んだけど、どうにも何か足りない感覚は正直ずっとあった。

 今の今までこのブログにちょいちょい登場するTくんと久々に電話して、久々に何も考えずに頭の中を全部垂れ流すタイプの会話をして、衝撃を受けた。どうやら俺は気づかないうちに、俺の好きだった俺から少しずつ変わってしまっていたらしい。言葉に頼るようになってしまったし、自分の本質からは目を背けてたし、無意識を大事にする散歩はしなくなってしまったし、厨二病っぽいことを恥ずかしいと思うようになってしまったし、何より自分の好きだった部分が気づかないうちにスッポリなくなってしまっていた。無くなったことにすら気づいてなかったからタチが悪い。

 自分で言うのもなんだけど、俺島根にいた頃もっと鋭かったというか、尖ってたというか、ギラギラしてた。無くなってしまったのはこのギラギラだ。幸せなんだけどどこかのっぺりとして感じるのはきっとこのせいだ。厨二病っぽいし見返すと恥ずかしい文章いっぱい書いてるし自我の発達段階は低いのかもしれないしエニアグラムタイプ4w5的には無いものより今あるものに目を向けるべきなんだろうけど、ギラギラがなくなるのだけは嫌だ。

 昔それを持っていたのは、きっと目を背けずに自分と、他人と、色んな事と向き合っていたからだと今になって思う。思えば長い間目を背けてきたことがいくつかある。まずはソイツらと向き合うことから始めよう。自分の中にまだギラギラがあると信じて探し始めよう。ずっと目を背けてたから、見えるようになるまで時間がかかるかもしれない。人は変身することはできない。安心に、安定に怯えた及び腰では歩みに体重は乗らないと竹原ピストルは教えてくれた。ここしばらく軽い歩みを積み重ねてしまった。きっとそれはそれで無駄では無いし意味あることなんだけど、一旦やめにしよう。途方もなく長い道のりを歩いてきたであろう竹原ピストルがあんな歌作ったんだ、俺だって負けてられない。俺だってオールドルーキーだ。俺だって。

 

 俺だって、ギラギラなやつをまだ持ってる。

変身、進化

 記事をちゃんと書くのいつぶりかな。この4月に福岡に引っ越してから忙しいと言うより目まぐるしい日々でまともにブログ書く気力も時間も無かったけど、こっちの生活にも慣れてきて、何より色々書きたいことが溜まってきたから深夜徘徊終わりのゴミカスみたいな時間(AM 3:55)にこうして真っ暗な部屋でパソコンに向かい合ってる。何から書こうかな、書きたいことが色々ある。まぁ何書くにしてもいつも通り超個人的な記事になることは間違いない。

 

 こっちに引っ越して2週間くらい経った4月の中旬頃、個人的にめちゃめちゃ生きづらい時期があった。生きづらくなるの早くね?って思うかもしれない。俺もそう思う。今までのミスター口だけ番長な俺から生まれ変わろうと起業家シェアハウスに住み始めたは良いけど、すごい人達に囲まれる中で自分も胸を張れる何かをしなきゃみたいな事を勝手に思って、勝手に押しつぶされそうになってた。

 そんな中、前も記事に出てきたTくんと電話した。日常の他愛もない話をアレコレしてた時「なんかそれお前らしくないな」ってふと言われた。本人曰く何気なく言ったらしいけど、自分を見失ってることにすら気づいてなかった俺にとってその言葉はクリティカルヒットだった。今までの自分を切り捨てて新しい自分になるんじゃなく、今までの自分に新しく得た何かを積み重ねていく事で新しい自分になりたいと思わせてくれた。

 それを意識するようになってからは劇的に生きやすくなった。そもそも俺は解決したい社会問題なんてないし、イベントに片っ端から参加するタイプではないし、怠惰な部分は誰に責められようが長所だと思ってるし、働かずにお金が欲しいし、意味のないことに意味を見出さないまま延々とやるし、何より自分が生きたいように生きてたはずだ。そういう今までの俺エッセンスと、この最高の環境ですごい人達からもらった色々を組み合わせれば、きっともっと気持ちよく生きれる。なりたかった自分にも近づける。

 きっと俺は、変身を望んでいた。掛け声1つで勇敢なヒーローになるように。目が覚めたら毒虫に変わっているように。現実ではヒーローにも毒虫にも変身することもできない。でもヒーロー、あるいは毒虫に進化することはできる。なりたい自分に進化することだってできる。その為にはまずは今の自分を受け入れることだ。無理に好きになる必要はない。嫌いな部分は嫌いなままで、認めたくない部分は認めたくないままで、自分として受け入れることだ。シェアハウスで開催されるイベントをガン無視して部屋に篭り、地域の小学生を集めてプログラミング教室を開き、周りからなんだあいつと思われながら、俺は今日もまた新しい何かを積み上げる。

 

 あと1つ書きたいことがあったんだけどなんかいい感じになったから一旦終わろうかな。多分もう1つも近いうちに書くと思う。いつも以上に自分の内側に向いた話になると思うから早く文章にして客観視したい。じゃあ、そう言うことで。おやすみなさい。

引越し

 引越し先がシェアハウスなので基本的に服と本以外必要なものは無く、ゴミの分別がトコトン苦手な俺は、ほとんどの家具をゴミ回収業者の兄ちゃんに持っていって貰うことにしました。

 前日の夜、「もうこの風景も最後か〜」と思いながら家具たちを眺めていると、そう言えば島根で1番長く一緒にいたのはコイツらなんだなぁと思い、その瞬間まるで家具が語りかけてきたように色んな記憶がブワッと思い出されました。

 

 次の日、ゴミ回収業者の兄ちゃんによって袋に詰められ軽トラに詰め込まれた思い出の家具達は何処か無機質な物に見え、まるで死体の様だと思いました。それらを乗せて遠ざかっていく軽トラックは、あの人を乗せて遠ざかっていく夜行バスと重なって見えました。

 

 空っぽになった部屋で1人座ってると、まるで2年前のあの日に戻ったような、でもやっぱり2年前のあの日とは違う様な、変な感覚になります。「はーっ、ひと仕事終えたらとっとと部屋に戻ってビール飲んでゴロゴロしながらフジナッツ健のオンカジ放送見てぇなぁ!」と思ってしまって、その部屋がもう無い事を痛感しました。

 

 物は何も無くなっても色んな記憶はまだ置きっぱなしで、どうにも片付けられませんでした。雑巾がけして汚れをとってもホコリをとっても、それは変わりませんでした。島根での記憶は全部耳たぶの穴に詰め込んで蓋をしたつもりだったけれど、やっぱり入り切らなかったようです。寂しいけれど、入り切らない記憶達はここに置いていくことにしました。もうここには居れない代わりに、記憶はずっと置いてあると思うと、少しだけ心が温かくなりました。

 

 沈黙が寂しくて適当な言葉を発してみたら、やけに響く自分の声に余計寂しくなりました。何も無い部屋でいつもよりよく響く目覚まし時計のチクタク音に「もうあの場所は無いんだぞ」と言われてるようで。どうやら諸行は無常のようです。

 

「明後日には実家に帰るのか〜、荷物の整理終わってないけど何とかなるか」などと呑気なことを考えていると、ふと"実家に帰る"という言葉に違和感を覚えました。いつの間にか、俺にとっての帰る場所は1人で暮らしたあの部屋になっていた様です。

 

 さて、「部屋で1人でグダグダ考えるのは辞めたんじゃなかったのか」と今は亡き家具たちに怒られそうなので、そろそろ最後の昼散歩にでも行くとします。

 

 初めて一人暮らしした部屋。めちゃめちゃ在り来りな事しか言えないけど、2年間ほんとにありがとな。さようなら。

またな。元気で。

 島根で最初(で最後)の友達のTくんが引っ越した。

 1人になってから未だ感傷タイムを過ごしてる訳だけど、いつか今の寂しさも感じる事が出来なくなって、「あの時は寂しかったなぁ」なんて在り来りな記憶になってしまうのが寂しいから、いつでも思い出せるように文章にして残しておこうと思う。今更ながら余りにも個人的なブログ。

 

 共通の趣味も無いし共通の話題も大して無かったけど、何回も何時間も話して歩いてくれたTくん。ラスト3ヶ月くらいは3日に1回くらい誘ってた気がするから、多かれ少なかれウザかったと思うけど、付き合ってくれてありがとう。

 人生を「人と生きる」と読むなら、基本Tくんとしか話してなかった俺にとって、それこそエレカシが言うように「あの時間こそ俺の人生そのものだった」訳で。Tくんにとってもあの時間が大事なものになってればいいな。お前だったら「もうお前と散歩なんてやってらんねぇよ」って言ってくれるだろうか、とか1人で思って、1人で春日役もやって、「このギリギリ万人に伝わりそうな内輪ノリ1人でやると虚しいな」ってお前に話しかけそうになってまた感傷タイム。

 

 よく一緒に歩いた駅までの道のりとか、よく食べに行った唐揚げ屋とか、テッパンの集合場所とか、Tくんのアパートの前とか、いつものカラオケとか、花火したりエモったりした湖とか、よく例の人の話しながらタバコ吸ったファミマとか、色々詰まったローソンとか。Tくんとの思い出の懐古散歩は行く場所が多くてたいへん。どこ行っても「もうあいつと前みたいにここに来る事はないんだなぁ」と思っては涙腺を閉め直さないといけないから本当にたいへん。俺らはいつまでこの景色を覚えてられるんだろうな。いつまでこの景色を思い出して、こんな感情になれるんだろう。思い出スポットをボーっと眺めて、別れ際に改札の前で「めっちゃ寂しいわ」って言えそうで言えなかったあの微妙な沈黙を思い出しながら、感傷タイム。

 

 「食べ物の写真パシャパシャ撮る人の気が知れないと思ってたけどあれは食べ物を撮ってた訳じゃなくてそれを通してその時の空気を撮ってたんだな」って話をTくんとしたことがある。そういう時の良い写真って言うのは、食べ物を美味しそうに撮るとか綺麗に撮るとかより、後からその写真を見た時にその時の感情とか空気感がブワッと思い出せるような写真なんだと思う。そういう意味で、最後の夜の長距離散歩の時に例のローソンの前でTくんが撮ってくれた写真は、これ以上無いってくらい良い写真。Tくんを見送った帰り道でケツメイシの友よ聴きながらその写真見てたら我慢できずにちょっと泣いちゃったのは、恥ずかしいからこれ読んでる人だけの秘密。

 辛い時は何でも話してよって言える距離感にはもう居られないかもしれないけど、お前とその距離感でいられた事は忘れない。って、本心だけど恥ずかしすぎてとてもじゃないけど本人には言えないな。最後のカラオケでTくんが歌ってた友よを思い出しながら、感傷タイム。

 

 なんかちょこちょこ書いてたら無限に書きたいこと出てきた。まぁでも、これ以上は書き残さないでおこう。いつかまたTくんと会った時に無限に話すことにする。だからお前もまた会ったら無限に話してくれ。それこそ夢の続きを何度も聞かせてくれよ。

 

 物理的距離も、もしかしたら心理的距離も変わっていくかも知れないけど、これからも変わらず友達な。

 

 

じゃ、またな。元気で。🤜🏻 🤛🏻

 

 

 

(Tくんは確かAndroid勢だから最後の絵文字ちゃんと見えないかもだけど変わりの絵文字探すのめんどくさいからこのまま行くわごめんね)

 

友よ / ケツメイシ

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トモダチ / ケツメイシ


ケツメイシ「トモダチ」

人の間

 気付けば島根で一人暮らしを始めて2年が経った。

 島根に来た当時、1回くらい栄養失調か睡眠不足でぶっ倒れると思ってたけど、そんなことも無く初めての一人暮らしが終わろうとしてる。変わったことはまぁ色々あるけど、大きいのはやっぱ人と頻繁に接さなくなった事だと思う。

 実家にいた頃は学校に行けば友達がいたし、長期休暇どんなに引きこもっても家には家族がいた。自分以外の人と1回も喋らない日なんてなかったと思う。

 島根の生活は人と1回も喋らない日なんてザラで、むしろそれが日常。特にここ1年は研究室で一言も喋らないマネキンと化してたから1週間1回くらい編入生のTくんと散歩する以外で基本的に人と喋らなかったな。レジもセルフレジ使ってたし。

 でもこれが不思議なもんで、人とあんまり接さなくなった今になって、周りに色んな人を感じるようになった。毎日のように顔合わせてた友達も家族も当時以上に近くに感じて、「あぁ俺の周りにはこの人達がいるんだなぁ」ってなる。皆がいるから1人でも大丈夫とかそういう話じゃなくて、ただそう感じるだけ。

 そういう意味ではあの頃の方がよっぽど"一人暮らし"してたなぁ。

 そういう意味では、今の方がよっぽど皆と過ごしてるよなぁ。

 

 "人"を近くに感じるのは島根で新しく出会った人達に対しても同じで、島根に来て、何人かの俺の人生における重要人物と呼ぶべき人達と出会ったり別れたりした。楽しかった記憶も沢山あるし、あの人には嫌われたなーとか、あの人を傷つけちゃったなとか、未だ笑って話せない記憶もある。でもどれも大切な思い出。

 その人達を重要人物と言えるのは、そう言えるくらいに俺が周りに目を向け始めたからだとも思う。今までもきっとそういう出会いはいっぱいあって、周りをもっとちゃんと見てればそれに気付けたんだろうなぁ。もう過ごす事は無いけれど、BUMP OF CHICKENリスナーらしく、その人達との日々にR.I.P。

 

 人と"近く"関わろうとすると本当に色んなことがある。今まで味わった事がないくらい悲しい事もあるし、今まで味わった事がないくらい怖い事もあるし、今まで味わった事がないくらい気まずい事もあるし、もちろん今まで味わった事がないくらい嬉しい事もある。どんな感情になればいいのか分からないなんて時もあったりする。どんな意味でもそれら全てを"良い思い出"とは言えなくて、良い思い出も悪い思い出もどんどん増えてく。それを無理やり悲観する必要も、無理やり"それで良いんだ"って思う必要もなくて。感じたままに感じればいい。それこそ酒の肴って意味では同じ事だしな。

 とりあえず今は悪いことでは無いと思ってる。あれもこれも折り合い付けれて良い思い出になってしまったらそれはそれで良くないんじゃねーの、って気持ち。まぁまた考え方が変わったらブログにして教えてくれ、楽しみにしてる。

 

 今まで人間関係って家族か友達か恋人かその他大勢しか知らなかったけど、言葉に出来ないだけでもっと色んな種類があるっぽい。家族も友達も恋人もしっくり来ないようなそれらを一纏めに言うと"不思議な関係"なのかな。(余談だけどoasisのwonderwallはこの不思議な関係の1つの表現方法だったりするのかな?)

 きっと誰とでもその人としか築けない関係があって、大きい意味でそれは友達だったり恋人だったりするのかもしれないけど、アイツとの"友達"って関係とコイツとの"友達"って関係は違うものだったりする。下手に友達とか恋人とかって言葉があるから、誰かと出会った時「この人と友達になりたい」とか、「この人と恋人になりたい」とかって思うけど、それってある意味で関係を制限してるんじゃないだろうか。その人としか築けない関係を築いていけばいい。リンダリンダの「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」って歌詞にもある通り、言葉に感情とか関係を制限される事はない。

 

 

 なんかゴチャゴチャ書いたけど自分でも「で、何が言いたいの?」ってなって困ってしまった。まぁ何でもいいか、チラシの裏だしな。

 とにかく、そんな訳でようやく、色んな関係の色んな人が周りに居てその中で生きているって事に気付けるようになった。これは数少ない俺の島根での成長。

 

 今日も色んな人の間で生きている。

 

 人間として生きている。

酒の肴

 すごくすごく嬉しいことがあったときの酒はとてつもなく美味いけど、すごくすごく悲しいことがあったときの酒は、やっぱりとてつもなく美味いからタチが悪い。

 嬉しいことも悲しいことも酒の肴って意味では同じさ。枝豆かチーズかって、そんなのどっちだっていいだろう。

 

「今日はパーッと飲むぜ!」って思いながらガッツリ飲む酒は笑っちゃうくらい美味いけど、「今日はなんとしても飲まないぞ」って決めた日にこっそり飲んじゃう酒は、やっぱり笑っちゃうくらい美味いからタチが悪い。

 胸を張れることも後ろめたいことも酒の肴って意味では同じさ。唐揚げか餃子かって、そんなのどっちだっていいだろう。

 

 大切な彼女と飲んだ酒は"もう何もいらない"ってくらい美味かったけど、彼女だったあの人を思いながら飲む酒は、やっぱり"もう何もいらない…"ってくらい美味いからタチが悪い。

 大切なあの人も大切だったになってしまったあの人も酒の肴って意味では同じさ。

 でもそれはやっぱり違うよな。

 

 どうしたって違うよなぁ。。。

最近の日記

「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」
 誰の言葉か知らないけど真理だと思う。
 人生ってほど大袈裟じゃなくても、アレがしたい!とかコレがしたい!みたいな活力に満ちてる時の1日はあまりに短いし、そうじゃない時の1日は、やっぱりあまりに長かったりする。彼の天才アインシュタイン曰く「熱いストーブの上に1分手を置いていると1時間くらいに感じるが、好きな子と1時間話しても1分くらいにしか感じないだろう。これが相対性理論だ。」とのことだから、これもまた相対性理論なんだろうな。ところで彼のこの名言かなり汎用性高いよね。なんかそれっぽい事言って話の流れ切りたい時とか「うんうん、それもまた相対性理論だね!」とか言ってれば大体なんとかなりそう。それでどうなっても責任は取れないけど。

 とにかく、そんなこんなで最近は1日が長くて長くて。一見すると無駄な時間をたくさん過ごしてしまう。ワビサビの美意識が無い民族だったらたぶん生きていけない。ゲームみたいにスキップコマンドがあれば楽なのになとか思ってみたり。そんなもんあったら、それこそ詫びも寂びも無くなってしまいそうだけど。いや、それはそれでやっぱり"侘び寂び"なんだろうか。思ったことをそのまま書いてるから脱線しまくりでごめんね。そもそも本線がないから脱線もへったくれもないけどね。

 そんな、意味があるのかないのか分からない毎日でも良い事が無い訳では無くて、具体的には部屋に引きこもる時間が極端に減った。といっても外にいる時間の半分以上は外界と関わらず散歩してるだけだから広義の引きこもりではあるけど。未だ現役のiphone6sのヘルスケアによると今週は1日平均11.5キロ歩いてるらしい。直近1ヶ月だと1日平均8.3キロ。年金生活が始まって暇になった老人かありえんほど暇な大学生くらいしかこんなに歩かない。音楽聞いたり聞かなかったりしながらただ歩いて、行ったことない飲み屋とかよくわからんアクセサリーショップとかバッティングセンターとかカラオケとかパチンコとか見つけたお店で適当に時間潰したり潰さなかったりして、GEOで映画借りたり借りなかったりして帰る毎日。まさに風の吹くまま気の向くまま。ある意味で捻じ曲がった、ある意味で正常なモラトリアム。It's the 暇人life。

 今日の散歩の肴は隣町で見つけたゲームセンター。ゲームセンターに行くと必ず見かける、メダルを機械に入れ続けて人生とお金を無駄に消費するだけのゲーム、略してメダルゲームを延々とやってた。それこそ暇な老人か暇な大学生の為のゲームだと思ってたアレだけど、赤ちゃん抱いたギャルママとかスーツ着た人とか、思いの外色んな人がいて、皆それぞれに人生があって、大なり小なり空いた人生の隙間にコインを投入してるんだなぁ。。。って、何こっ恥ずかしいこと考えてんだバカ、とか1人でやってた。山田亮一の言ってた「CR人間模様」ってこれかぁ。そんな人達に混ざって、意気揚々と現れて「リーチ!」とか叫んでは外して沈んでいくマリンちゃんに殺意を抱きながら、人生に大きく空いた隙間にメダルを入れ続けてた。マリンちゃんマジ許すまじ。多分あれは"人間を簡単に信用するな"っていう制作陣からのメッセージだと思う。信頼できるのは魚群だけ。

 そうそう、冒頭のあの言葉、山月記で有名な中島敦の言葉らしい。あんな言葉が出てくるって事は、日々忙しそうな彼にもとてつもなく長い1日があったりしたんだろうか。だとしたら俺ら良い友達になれると思うよ。死んだらあの世で文字通りソウルメイトになろうな、中島敦

 自分にすら需要がない謎の文章をつらつら書くの案外楽しくて、ダラダラと流れ出る思考をそのまま書いてるうちに気づいたら半日終わってた。やっぱ楽しいことしてると時間の流れって速いよなぁ。

 うんうん、これもまた相対性理論だね。

 

 p.s.尊敬する友人であり過去のグラブル仲間であるところの某くんから「ブログはチラシの裏」っていうありがたい言葉を貰ったから久々に書いてみたけど楽しかった、ありがとう某くん。