一人暮ブログ

Twitterの延長.エモかった事とか書きたいだけです.

俺vsなんにもない日

なんにもない日だった。

そんな言葉で終わる今日が嫌だった。
何も出来ない自分が嫌だったし、今日あった全ての事から何も感じとれない自分が嫌だった。
なんにもない日なんて陳腐な言葉で終わらせたくないから、今日あったことを考えてみる。

とりあえず心臓はずっと脈打ってたな。
試しに5秒間の心拍数を測ってみたら7回だったから、起きてる間で約7万回、寝てる時間も含めたら1日約12万回脈打ってることになる。
やばくない?12万回。めっちゃ頑張ってる。1回1円もらえる仕組みがあったとしたら、日給12万円稼いでる事になる。
毎日12万円使えるって考えてみなよ、誰だって大喜びだろ。
1日で12万円稼いだ日ってなるとそれは何も無い日とは呼べないな。むしろ誇るべき日だ。
不随意筋とは言え自分の体がこれだけ頑張ってるんだ、自分を褒めたくもなる。
よく頑張ったな偉いぞ俺。


まぁ、言いたいことはわかる。
そんなの毎日そうじゃんってさ。俺も思った。12万回心臓が脈打つことがいかにすごくてもそんなの毎日起こることで、今日もそうだったというだけ。
それが毎日続くのが凄いことだとか、当たり前になってしまってる事でも凄いことなんだとか言いようは色々あるけど、俺が求めてる「何かあった日」ってそう言うのじゃないんだよな。どれだけ凄いことでも毎日続けばそれが普通になってしまって、結局昨日をなぞっただけだと感じてしまう。
そうじゃなくてなんかこう、もっと「何かあった感」が欲しい。



ここまで考えて、思った。
今までなんにもない日を変えようと考えを巡らせた事があったっけ?
いや、無い。ただなにもなかった事から目を背け、いつか何かしてやるんだと息巻いてただけ。
なら今日は、特別な日だ。なんにもない日に立ち向かった日だ。ただ目をそらすしかなかった昨日までとは違う。完璧な「何かあった日」だ。
さらに、「なんにもない日に悲しくなった時は、昨日まで考てもみなかったことを考えることで「何かあった日」にできることを学んだ日」、だ。これからなんにもない日に出会った時の対処法、俺にとってはかなり有効だと思う。

これでとうぶんなにもない日に悩まされることは無いだろう。と言いたいところだけど、いつか「なんにもない日」はまた現れる。そんな気がする。その時はまたブログのネタにでもすればいいか。そうすればもう「何かあった日」だしな。



俺vsなんにもない日、俺の勝ち。

一人暮らし、午前2時。

 テスト勉強の苦痛という学生の特権を存分に満喫していた真夜中、それは唐突にやってきた。
 この生活はいつかは終わり、その次の生活もいつかは終わり、そしていつかは自分の人生も終わってしまう。そんな感覚。明確な名前はないと思うけど、強いて言うなら焦りだとか、恐怖に近い。
 一瞬前までそんな事考えていなかったし、なにかきっかけがあった訳じゃない。けど、一回意識し始めると止まらなくなるタイプの感覚。


 小学生の頃も中学生の頃もそして商船の頃も、それらの日々がいつまでも続かないことはわかっていた。いや、わかっていたつもりでいた。むしろ、「終わらない日々とかあるわけ無いじゃん」くらいの冷めた考えだった。


 今年初めて地元を離れて一人暮らしを初めた。しばらくは新しい生活に戸惑ってドタバタしていたけど、だんだんそれにもなれて生活がルーチン化してきた。

 

 今までの日々が終わった。

 

 今の生活に慣れて、初めてそうリアルに感じた。
 過去に戻りたいとは思わないし、あの頃は楽しかったのに今は…という話でもない。今の生活は楽しい。想像通り大学ではぼっちだけど素敵な彼女はいるし、大学では自分の好きなことが学べる。僅かだけど楽しくお金儲けもできている。地元には親友たちもいる。
 けど、どれだけ今を、日々を充実させても、それらはいつか終わっていく。大学生活が終わったあと自分がどうなるかまだわからないけど、どうなったとしても、その新しい生活もいつかは終わる。そしていつかは全部が終わって、死んでしまう。
 「いつかはそんな日も訪れるんだなぁ」なんてのんきな話ではない。実際に今、地元での日々は終わった。
 どれだけ遠い先の話でも、それはいつか「今」になる。頭ではわかっていても、体験してみるとまた別物だ。時間の流れがひどく無情で、無機質に感じる。

 

 「死」に対して、様々な価値観があると思う。自分が生きていた証を残したくて目に見える形で何かを残す人もいるし、人は死んでも誰かの心の中で生き続けるのだと唱える人もいる。そもそも「人に忘れられた時がその人の死」だと言った雪国の医者もいた。
 残念ながら自分にはまだどれもしっくりこないけど、心の準備ができていようがいまいが必ずその時は訪れる。


 ふいに、クレイジーケンバンドのある歌詞が頭をよぎった。

 

 泣いても笑っても、時間は前にしか進まない。だからこの瞬間を、もっと強烈に。もっと鮮やかに。

 スパークだ!スパークだ!と、自分を励ました。

 

 この得体の知れない恐怖をどうやったら克服できるのかまだわからない。けど今を最大限スパークさせて、強烈で鮮やかな今を蓄積していけば、いつかこの恐怖に対抗できる日が来るかもしれない。
 だからまずは良い事も悪い事も、あらゆる状況を全て楽しんで、精一杯今を充実させようと思う。もし楽しめなくなったらその時は休めばいいと、僕の好きなブロガーが言ってた。(それを言ったときはブロガーじゃなかったけど。)


 色々考えていると、少し恐怖も薄れてきた。しかし次いつこういう恐怖に襲われるかわからない。そのときに備えて、早速今この瞬間を刻み始めよう。

 スパークだ。スパークだ。

 

 

スパークだ!/クレイジーケンバンド

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ナビゲーターは魂だ

 久しぶりにブルーハーツの名曲、「ナビゲーター」を聞いた。今回のブログタイトル「ナビゲーターは魂だ」はこの歌のサビのフレーズ。

 

 この歌と出会ったのは、小学生の頃。スイミングスクールから帰る車の中で聞いたのが初めてだったと思う。当時は歌詞の意味がほとんど理解できなかったけど、この歌の持つ独特な魅力に惹かれよく聞いていた。今思えば、歌詞がわからなかったあの頃でもなんとなくこの歌の「気持ち」は伝わっていた。よくわからないけど優しくて、暖かくて、何かの門出のようでいて、何かをやり遂げたあとのようでもある独特な雰囲気。

 まるで今ではこの歌の真意がわかっているかのような語り口になってしまったけど、今でもこの歌の歌詞をちゃんと理解しているわけではない。そもそも歌詞を完璧に理解するなんて不可能であるべきだし、そうであって欲しいと思うけど。

 

 この歌を聞くと、小学生の頃をよく思い出す。現在の自分からは想像もできないけど、あの頃はアウトドアが大好きな子供だったんだよな。自由な時間に家にいることのほうが少なくて、いつも友だちと遊んだり、一人でも川とか山で遊んだりしてた。水泳、野球、陸上とか何かとスポーツもしてたなぁ。

 皆も小学生の頃は良くしてたけど今はもうしなくなったこと、あるんじゃなかろうか。その当時聞いてた歌を聞くと、その頃の情景というか感覚を思い出してなんだか楽しい。目を瞑って聞いてるとタイムトラベルの疑似体験ができる。

 

 思い出補正ってやつで美化されてるからかもしれないけど、あの頃ってもっと魂のままに生きてた気がするんだよな。実際、魂のままに生きれてた。今もだいぶ好き放題やってるとは思うけど、人生だとか自分自身の根本的な問題だとか、漠然としたものについて悩むことが増えた気がする。「将来なにやって食べていくんだろう」だとか、「自分が本当にしたいことってなんなんだろう」とか。うじうじ悩んでも仕方ないことはわかってるんだけど、どうしても色々考えて、時には自分に嫌になったりしてしまう。嫌になることすら嫌になったりする。

 

 

 ナビゲーターの一節に、こんな歌詞がある。

 

 あぁこの旅は気楽な帰り道。

 のたれ死んだところで、本当のふるさと。

 あぁそうなのか。そういうことなのか。

 

 あくまでもそういう考え方もあるかもねって程度なんだけど、自分はもしかしたら、とんでもない冒険をして生まれてきたのかもしれない。それまでにとんでもない旅があって、そのゴールが生まれるってことだったのかもしれない。

 だとすると、この歌の言うように、人生なんてのは気楽な帰り道なんだろう。最終的にどうなっても、生まれる前いたところに帰るだけ。

 子供の頃なんとなく感じていた独特な雰囲気は、たぶん凱旋だ。勝利した兵たちが街に帰り、音楽や拍手で迎えられる、あの雰囲気。

 

 故郷を出て一人暮らしを始めて、大変な旅をしてるつもりでいた。いや、生きてる以上旅を続けないといけないとさえ思っていたから、将来だとか自分のことだとかに対して過剰に悩んで、道に迷ってた。けど、そんなに思い悩む必要もないのだろう。もっと気楽に行こう。とはいえ長い旅だ。帰り道がわからなくなることもある。そんなときは、魂のままに生きてたあの頃を思い出し、魂に聞けばいい。

 ナビゲーターは魂だ。

エモフィルタ

 なんとなく歩いてるとき、ふいに目に「エモフィルタ」が掛けられることがある。


 今夜は学食で済ませるつもりだったけど、気づけば学食は閉まっていた。若干肌寒いなか暗くなった学食の前でぼーっと立ってると、ふいに牛丼が食べたくなって衝動的に吉野家に行った。帰りにふらっと本屋によって適当な本を何冊かパラパラとめくり、家に向けて歩き始めたその時、唐突にそれが起こった。エモフィルタだ。それまで何の気なしに見ていた周りの風景がとてつもないエモになる。見慣れたはずの風景がまるで別の場所のように映る。

 異世界だ。異世界に来た気分だ。いつも通る道なのに、そこはもはや自分がよく知る道ではない。自分は今、異世界を歩いてる。

 


 スーツを少しラフに着こなしてるサラリーマン。大学帰りのイケイケ大学生。部活帰りの高校生達。肩が触れるか触れないかくらいの距離で並んで歩いてる中学生くらいのカップル。カップルかは知らないけど。夜の学生街を彩る焼肉屋とか飲み屋の看板。グレーチングの下に捨てられた煙草の吸殻。信号が黄色から赤に変わった直後に慌てて通過する車。太陽が沈みきって深い藍色の空。etc...目に映るすべてがエモい。

 こういうとき、周りの人達に謎の仲間意識を持つことがある。色んな人達にそれぞれの生活があって、それらが集まってこの街を作ってる。自分達はその一員なんだっていう、よくわからない繋がってる感。そして知るはずもない彼らの日常に思いを馳せる。じっくり観察して日常を推察するみたいなストーカーチックな話じゃなくて、ただなんとなく思いを馳せる。
 しばらく歩いて、今度は自分の日常を振り返る。今日は何があっただろうか。牛丼は美味しかったし、帰りに寄った本屋でパラ読みした誰だかのエッセイはエモかった。けど一番はやっぱり彼女がQueen + Adam Lambert来日公演のチケットを当てたことだろう。映画ボヘミアン・ラプソディQueen熱がすごいこのタイミングで当てたのすげぇな。前からQueen好き好き言ってたしホンマおめでとう。

 


 と、今日のことを思い返しているといつの間にか現実に戻っていることに気づく。エモフィルタは自分の意志とは関係なく掛けられ、外される。今日の異世界散歩はここで終わりのようだ。

 あぁ、見慣れたいつもの帰り道だ。さっきまでの「繋がってる感」の余韻が残ってるのか、妙に人肌恋しい。しかし同時にとてもいい気分でもある。帰ったら部屋の片付けでもしようかな。

 

今日の散歩のお供 The Smashing Pumpkins/Today

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